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山中 一郎(やまなか いちろう、嘉永元年(1848年) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期(幕末)の佐賀藩士。佐賀の乱の首謀者の一人。 == 経歴 == 嘉永元年(1848年)、佐賀城下水ヶ江鷹匠小路に山中四三郎の長男として生まれる。幼少時から秀才の誉れ高く、藩校弘道館では寮監となったほか、江藤新平や副島種臣にも学び、江藤の弟子の中では香月経五郎と並び藤門の双璧と呼ばれた。また、慶應4年(1868年)には佐賀藩が長崎に設立した英学校致遠館に入学しており、有名なフルベッキ写真にも大隈重信らとともに写っている。戊辰戦争には参加しておらず、明治4年(1871年)には藩命によりドイツ・フランスに留学し政治・経済を学んだ。明治6年(1873年)に帰国してから政府に提出した「海外視察御届」では高い評価を受けたが、その年に発生した明治6年政変により江藤新平が職を辞したためこれに同行し佐賀に戻った。 佐賀の乱では長崎で武器の調達にあたったほか、斥候掛長として敵情を偵察したりなどした。戦闘に敗れてからは佐賀を脱出する江藤に同行し、鹿児島で村田新八に面会したが協力を得られず、さらに四国へと向かったが土佐にて捕えられた。乱後の裁判にて斬首。享年27。辞世は「苦学多年業未成 一朝謀敗死元軽 二十五年如一夢 誰使後人継我誠」。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山中一郎 (佐賀藩士)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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